浦和くらしの博物館民家園内で展示中の古民家。
高野家は、中山道沿いの岸町7丁目にあった煎餅を製造販売する商家です。
園内に、復原された建物は、店舗兼作業場部分ですが、本来は、宿場の商家として典型的な、「間口に対して奥行きの長い」つくりで、通りに面した店舗とそれに続く住居部分からなっていました。
解体調査の結果、建築当初は茅葺だった屋根を明治40年頃に瓦葺に変えていたことが判明したため、民家園への移築に際し、建築当初の形に復しました。
屋根は寄棟、茅葺で、正面に軒の張り出しを大きくする出桁作りと瓦葺の下屋庇がついています。
内部は正面から、入って左側が土間、右側は床上で、大黒柱を境に8畳のミセと6畳の板の間に分かれています。土間とミセの上は、屋根裏で、物置として使われており、土間に入ってすぐの天井には荷物を上げ下げできる吹き抜けがあります。
屋根裏へは、土間の奥からはしごをかけてあがりました。土間中央の壁面沿いには井戸があります。また、土間奥左の壁に煙りだしの小窓が切ってあることから、当初はこの辺にかまどが設けられていたようです。
建築年代を、はっきりと裏付ける資料などはありませが、建築途中に安政の大地震(安政2年10月2日 1855年)が起こったという言い伝えや、部材の仕上げ、建築工法などからも江戸時代末期の安政年間の建築と考えれます。現存する浦和宿中山道商家としては最も古い建物です。
高野家は、中山道沿いの岸町7丁目にあった煎餅を製造販売する商家です。
園内に、復原された建物は、店舗兼作業場部分ですが、本来は、宿場の商家として典型的な、「間口に対して奥行きの長い」つくりで、通りに面した店舗とそれに続く住居部分からなっていました。
解体調査の結果、建築当初は茅葺だった屋根を明治40年頃に瓦葺に変えていたことが判明したため、民家園への移築に際し、建築当初の形に復しました。
屋根は寄棟、茅葺で、正面に軒の張り出しを大きくする出桁作りと瓦葺の下屋庇がついています。
内部は正面から、入って左側が土間、右側は床上で、大黒柱を境に8畳のミセと6畳の板の間に分かれています。土間とミセの上は、屋根裏で、物置として使われており、土間に入ってすぐの天井には荷物を上げ下げできる吹き抜けがあります。
屋根裏へは、土間の奥からはしごをかけてあがりました。土間中央の壁面沿いには井戸があります。また、土間奥左の壁に煙りだしの小窓が切ってあることから、当初はこの辺にかまどが設けられていたようです。
建築年代を、はっきりと裏付ける資料などはありませが、建築途中に安政の大地震(安政2年10月2日 1855年)が起こったという言い伝えや、部材の仕上げ、建築工法などからも江戸時代末期の安政年間の建築と考えれます。現存する浦和宿中山道商家としては最も古い建物です。