綿貫家は、常盤2丁目の旧中山道沿い、旧浦和宿の中心部よりやや北に位置し、屋号を「菱屋」と呼び、明治35年(1902年)の「浦和町営業便覧」では「肥料荒物商 綿貫與助」とあり、他には、砂糖、米穀なども扱っていました。
なお、初代與喜知(智)は町政の要職を勤めたほか、商業振興などにも活躍した人物で、市指定有形文化財「綿貫家の算木および関係文書」は、與喜知(智)が養子に来る際、当家に持参したものです。
綿貫家の住宅は、東西に細長い敷地をもち、通りに面した塗屋(ぬりや)造りの店蔵と、その奥につながる裏座敷からなっていました。敷地南側の通りから裏の2棟の石倉まである広い空間は、当時から荷車による商品の搬入搬出に使っていたといいます。石倉は大谷石積みで、商品倉庫として使用されていた。裏座敷部分は平成3年に解体され、跡地には当家の住居が建っている。
旧綿貫家住宅として復原された店蔵は、旧中山道に面して建っていた平入りの「つし(厨子)」2階切妻造りで、規模は桁行(間口)4間、梁間(奥行)3間で、正面(西側)3尺5寸の桟瓦葺下屋がつきます。虫籠に似ていることから、虫籠窓(むしこまど)と呼ばれている格子窓も特徴的です。
なお、初代與喜知(智)は町政の要職を勤めたほか、商業振興などにも活躍した人物で、市指定有形文化財「綿貫家の算木および関係文書」は、與喜知(智)が養子に来る際、当家に持参したものです。
綿貫家の住宅は、東西に細長い敷地をもち、通りに面した塗屋(ぬりや)造りの店蔵と、その奥につながる裏座敷からなっていました。敷地南側の通りから裏の2棟の石倉まである広い空間は、当時から荷車による商品の搬入搬出に使っていたといいます。石倉は大谷石積みで、商品倉庫として使用されていた。裏座敷部分は平成3年に解体され、跡地には当家の住居が建っている。
旧綿貫家住宅として復原された店蔵は、旧中山道に面して建っていた平入りの「つし(厨子)」2階切妻造りで、規模は桁行(間口)4間、梁間(奥行)3間で、正面(西側)3尺5寸の桟瓦葺下屋がつきます。虫籠に似ていることから、虫籠窓(むしこまど)と呼ばれている格子窓も特徴的です。